「自由を得たからこそ弱さを担える」

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「自由を得たからこそ弱さを担える」

チャプレン室 長濱 カンナ

私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり…。

(ロ―マ人への手紙15章1節)

 

ローマ人への手紙が書かれた当時のローマの教会で、教えに対する論争が起こっていました。

例えば、食べ物について、ユダヤ教の教えでは食べてはならない物がありました。しかし、パウロを通して語られた神様の教えによって、自由に何でも食べて良いとされたのです。

それを知って、自由に食べる人たちもいたのですが、ユダヤ教改宗者の中で、なかなか、その旧い教えから抜け切れずにいる弱い人たちがいました。

律法を犯すことを恐れて食べることができなかったのです。

 

パウロ自身は、神様によって食べても良いと自由が与えられたにもかかわらず、自由を行使することを控え、弱い者に合わせました。

 

私たちの生活の中にも、本当は自由だけれども相手に合わせるといったことを様々な場面で適応することができます。

 

例えば、医療の現場で厳しい選択を迫られることがあります。

延命治療をしますか?

人工呼吸器呼吸器をつけますか?

胃ろうを増設しますか?

呼吸が止まった時に、心肺蘇生をしますか?

臓器提供をしますか?

一人ひとりのいのちの尊厳のために、本人の意向が最重要となります。

人には選択の自由が与えられているのです。

簡単なようで、よく考えると難しい選択ばかりです。

 

クリスチャンにとっては、この世だけではなく、その先に続く次の世界が待っているという希望があります。

「自然の流れに従いますから、延命治療はしなくて結構。」

それもひとつの選択です。

スムーズに物事が運ぶなら、その人にとって最善と言えるでしょう。

しかし、事前に決めてあったとしても、生か死か、急に現実をつきつけられると本人は良くても、家族のこころに揺らぎが出てくることもあるかもしれません。

意向の相違がある場合には、本人、家族との話し合いが必要となるでしょう。

人は自分だけで生きているのではなく、関わりの中で生きています。

物事は単純ではありません。

人には感情があります。

誰しもそうです。

 

あらゆる状況で難しい選択を迫られ、似たような悩みを持つ人は他にもいます。

何が正しいのか、人間が判断するのは難しいことです。

正しさを求めるよりも、悩んでいるその人に寄り添い続け、配慮することが関わる人たちに求められているということを考えさせられます。

 

このようなこと以外にも、あらゆるケースが存在します。

いつでも、愛をもって互いに受け入れ、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにと、イエス・キリストが身を持って教えてくださったことを心に留めたいと思います。